最近この本を読みました。
サッカーには全く関係ない本ですが、何でもかんでもサッカーにつなげてしまうのが指導者という人種です。
しかしそうは言いつつもサッカーに関わる方にとってかなりためになる考え方が含まれているのは確かであり、あらゆる人に読んでほしい一冊なのは確かです。
今回はそんな書籍から感じた現代サッカーの課題についてお伝えできればと思います。
「言語化」されすぎる現代サッカー
近年日本では「サッカーを定義づける」事に関する重要性が語られる場面が多くなり、あらゆるシーンやプレーに関して言語化して理解し、説明し、再現性を高めようとする働きが多く見られます。
養老先生いわく「言葉」は「情報」です。
そしてそれらは変化したりしません。
状態や状況、イメージなどを多くの人の中で共有し固定化する働きを持ちます。
少し難しいですね。
ようは少しずつ変化しているであろう動植物に関してもバッタはバッタ、チューリップはチューリップなのです。
赤いバッタも同じバッタですし、チューリップは何色でもチューリップです。
変わる人間と変わらない情報
人間、特に子供は日々刻々と進化・成長しています。
体の大きさ、頭の働き、動きの質、様々なものが変化しているはずです。
また頭の働きの部分で言うと人は「知る」ことで変わります。
これは考え方が変わるだけでなく、ものの見え方も変わるのです。
ここでの一例に余命宣告が挙げられていました。
「余命があと少しだと知ったらどうでしょう?」という問いです。
今皆さんが感じたようにおそらくいろいろ考えますよね。
そしてその瞬間から物事の見え方はそれまでと比べてまるで違うものになっているはずです。
これはその人が変わったということです。
存在する世界は何も変わってはいません。
しかしながら情報というのはこのようなときも変わりません。
ここに危うさが潜んでいるのです。
「言語化」されたサッカーが日本を弱くする
サッカー界で行われている言語化といえば、
『名将』と呼ばれる人のサッカーを分析し、
それを言語化し、
「あの監督はこのように伝えているに違いない」と想像し、
その名将のようなサッカーを再現できるように決まりを作り、
そして選手に教え込む、
と言ったようなことです。
はたしてそのような考え方の元カリスマ解説者監督は上手くいっているでしょうか?
サッカーはとてつもないカオスなゲームです。
故に再現性を高めるのは至難の業。
情報に固定化されすぎたサッカーはそのカオスな変化に耐えられないのです。
監督がチームでの決まり事を作るのはとても重要なことです。
しかし行き過ぎた「情報化」は耐震構造の施されていない建物のごとくサッカーを脆くしてしまうのです。
子供の指導でも「言語化」しすぎないことが大切
サッカーの多くの動作はある程度指導を聞いて、よいお手本を見て、あとはプレーを繰り返すことで身につき洗練されます。
これを「言語化」し「情報化」して伝えすぎると、その子を下手にしてしまいかねません。
なぜなら例えばですが「キックはこう蹴る」と教えたとき、その子にとっての「キック」はその情報で固定化されてしまうからです。
体が大きくなろうが、ポジションが変わろうが、コートが変わろうが、ボールが大きくなろうが同じ「キックはこう蹴る」で変わりません。
これはおかしいですよね。
本当であればその子の体格、シチュエーション、役割などで変わるはずです。
情報を固定化しないためにもいつでも変化のできるような「言語化しない」教え方が必要なのです。
まとめ
昨今のサッカー解説者や分析系ユーチューバーの話などを聞いてなかなか腑に落ちなかったことがまさかこのような書籍で解決されるとは思っても見ませんでした。
「選手と監督は違う」とはよく言いますが、現場の指導者とそれを横から見ているだけの人は違います。
保護者の方は、ただただ潮流に乗ってそのような考えを所属チームに求めてもいけませんし、自チームがそのような目新しい方向に走ったときは要注意です。
「子供はわかりやすく伝えないとわからない」というのも真実かと思いますが、「言葉で覚えるべきではないのでは?」という視点もこれからは必要なのかもしれません。
ぜひ頭でっかちにならず『知行合一(知ることと行うことは一体だということ)』を意識して取り組んでいきましょう!
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